言ってることと、させたいことのギャップ(勉強と成績)
なぜ勉強しろと言えば言うほど成績は下がるのか。 - keitaro-news
なぜ勉強しろと言えば言うほど成績は下がるのか。それは、試験以外使う当てのない知識を無理矢理インプットさせる行為であり、試験を乗り越えた先にはなにも残らないという虚脱感を子供達は知っているから。
虚脱感ではなく、親が子供に対して自律性を持たせて勉強させるのではなく、本人達の意思抜きに勉強させようと"統制"しているからではないかと思います。
この統制には、2種類の反応があって、1つは、服従。自分の意見・意思を度外視して、統制する側の意思に沿った行動をしようと自分を抑えること。もう一つが反抗で、自分の意見・意思と相反している場合に、(自分の意思に沿っているかは関わらず)統制する側の意思に"沿わない"行動をしようとすること。
どちらも本人の自律性(≠主体性)が伴わない行動。つまりは、本人が少なからず持っている「成績を上げたい」という意思に反して、自分では本来は望んでいない行動(服従・反抗)を"統制"という圧力があるがためにしてしまうということです。(多くの人に経験があるのではないかと思います。)
そもそも、「試験の成績を上げるためだけに、勉強をしなさい」と言われれば、そこに自分の意思を持ち込む余地はなく、試験の成績を上げることに(親よりも)興味・関心がなくなった瞬間、勉強しなくなると思います。もちろん、「試験の成績が上がれば、特別にご褒美をあげる」とアメを与えても、自律性が疎外されご褒美があるときだけしか頑張らなくなる。
なので、成績を上げるための手段の一つして勉強させたいのであれば。
- 「どうしたいのか」「どうなりたいのか」等のあるべき自分を明らかにする。
- あるべき自分になるための手段の一つとして、学習・勉強があることを認識させる。(あくまで自分で選ばせる。自己決定感を与える。)
- 基礎を教えて、興味・関心を抱かせて、応用させる。(応用まで教えると好奇心を奪う危険性がある。)
- 勉強をすることで本人があるべき自分になれるだけでなく、生まれる価値を教える。(将来の社会や会社等)
要は、学習意欲(勉強するモチベーション)を保つために必要なのは、自分を知って、その自分が決めているかどうかだと思う。
引用元記事のブコメにもありましたが、まさしくその通りだと思います。
lizy 結局カーネギーに行き着くのか。「人に何かをやらせる場合、自らそれをやりたくなるように仕向けるのが一番いい」とかそういう内容のヤツ
書いてみて思ったのだが、なんにでも応用できると思う。このサイクルを自分で行うことができれば、「指示待ち人間」にもならないのではないかと思う。例えば、社会人であれば、「キャリアプランを明確にする」「そのための手段を明確にする」「それを実行する」という感じになると思います。つい先日出張で事業所内のほとんどの人間がやらされ仕事になっているのを見て、自己決定感や有能感が極端に低いように感じました。
ちなみに、私は中学、高校と全く"勉強しろ"と言われなかった。逆に、周りの友達が親に言われているのを見て、自分の親が言ってこない現実に焦りを感じて勉強したのだが。なんでかは自分では分からないものです。
参考文献
「人を育てる」ことの本質を学べる本
読みやすい 成果主義の愚かさがわかる
自己の内省から始まる自律
「内発的動機づけ」がわかりやすい言葉で