Better Days

Think Simple. Lead the myself

「自分は迷ったら厳しい方を選びます」という新人

「自分は迷ったら厳しい方を選びます」という新人くんに出会った。その意図は厳しい方が自分が成長できると思うから、だそうだ。

素晴らしいと思う。ここでいう「厳しい」とは"自分にとって行うことが厳しい"という意味であり、厳しい方を選べば、たしかに学習経験という意味では豊富だとは思う。

ただ、これには盲点があるように思う。

1)厳しいか厳しくないかを判断するのに対象となる行為の情報が必要
2)迷ったときしか厳しい方を選ばない

ということだ。

1)厳しいか厳しくないかを判断するのに対象となる行為の情報が必要
これはこのままであるが、厳しいか厳しくないか主観的な判断をしていては、都合の良い言い訳ができる。客観的に見れば明らかに厳しくない方・優しい方なのに、自分にとって厳しいからといって「厳しいからこっち!」と選んでいては言行一致ではない。
客観的に判断するには、自分が何ができて何ができないか。さらには、"それ"を行うにはどのような知識やスキルが必要なのか、どの位の難易度なのかをある程度推測し、自身のコンディションを加味しながら厳しいか厳しくないかを判断する必要がある。
「厳しい方を選ぶ」といいながら、誰がどう見ても厳しくない方を選んでいては思想の素晴らしさなど欠片もないだろう。


2)迷ったときしか厳しい方を選ばない
これも言葉通りであるが。迷わずに厳しくない方を選んでいて易きに流れていては意味がない。「今この瞬間は決断のときである」と自覚をせず、これまでの慣習や周りの空気などに流されて、判断することを無意識で放棄し結果的に難易度の低い行動を選んでいては「厳しい方を選んだ」とは言えないだろう。


そう考えると、「厳しい方を選ぶ」には、
・自分にとって何が厳しいか厳しくないかを知る
・対象となる行為が厳しいか厳しくないかについて主観的・客観的、両方の視点を持つ
・人生は決断の連続であり、原因と結果を常に考える。
・軌道修正の頻度を増やす。PDCAの高速回転。

こういったところが必要だと考える。

逆に言えば、厳しくない方を選んでも良いのだ。大事なことは「厳しくない方を選んだ」ことに自覚があるかどうかであり、その結果の原因を捉えていて、そこに責任を有しているかどうかだ。その結果を良いと考えるか、悪いと考えるかは個人の主観によるが、「成長のために厳しい方を」というのであれば、あえて「人が選ばない方を選ぶ」位の逆張りじゃないと実際のところ本当に厳しい道は進めない。裏を返せば、「多くの人が選んだこと」を観察すれば、逆張りもしやすくなるだろう。

人が選んだ道とは結局のところ、先人たちの足跡があるわけで、その時点で厳しさは半減される。いかに未知の体験を、未踏の体験を、自分の目で、耳で、足で切り開くかの方が成長のためにはよっぽど大事であろう。

言行一致の難しさに気づくことができれば、次の一歩を踏み出したとも言えるだろう。自戒を込めて。